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東大寺別院 周防阿弥陀寺

2025年10月18日 | 片山 晋一

阿弥陀寺は、名層俊乗房重源上人が、東大寺を再建のため、周防国務管理在任中に建立された由緒のある古寺であります。

治承4年(1180年)東大寺が平重弘の兵火にかかって焼失しましたので後白河法皇は非常に残念がられ、ぜひ大仏を改鋳し大仏殿を再建しようとの悲願を起こされました。朝廷は重源上人を東大寺再建の大勧進勧勧とされました。上人は先ず大仏を鋳かえることとし、文治元年(1185年)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手されました。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を周防国務管理に任ぜられました。上人は宋人の陳和卿(ちんなげい)、日本の大工物部為里らをひきいて防府に下向され、4月18日佐波川を上り徳治の杣山で杣始めを行われました。山地は断崖絶壁が多く杣出しに不便でありましたから、道の無い所へ岩を崩して道を付け、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏(いかだ)に組み、河口まで28キロメートル余の間に118ヵ所のせき場をつくって筏を流し送られました。上人は寒暑も厭(いと)わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続けられ、仙始めから5年後の建久元年(1190年)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195年)竣工の大供養が営まれました。後白河法皇が建久3年3月崩御されて、この大会式に臨席のなかったことは、いかにも寂しいことでありました。上人が当地に下向されましたときには、源平戦争の余波で国府は疲弊し、土民の流亡する物も多く、また飢えを訴える者がたくさん集まりました。上人はこれに米を与え、野菜の種を取り寄せ、耕筰を励ますなどして、国府の繁栄を図られました。

阿弥陀寺は、重源上人が殊遇を受けられた後白河法皇の現世安穏を祈願し、文治3年(1187年)、この土地を選定し、自らくわを取って開墾すること三日三晩、真心をこめて建てられたもので、創建当時の境内は、東は木部山(きべやま)、南は木部野を横ぎって半上垰(はんじょうだお)に向かう旧街道、西は今の多々良山、北は大平山に至る広大な地域を占めこの中に浄土堂をはじめ、経蔵、鐘楼、食堂、温室および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊がありました。上人はこれら阿弥陀寺の経費のため、本寺を建立すると同時に寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付されました。僧坊は、長い年月を経るうちに火災や倒壊などの災難が多く廃寺となり今はただ本寺のみが残っています。

仁王門

仁王像を安置。往古の門は、永禄8年破壊して、120年間再興なく、貞享2年(1685年)毛利就信公が、原型にならって再興されました。

本堂

本尊阿弥陀如来立像 国庁寺本尊十一面観音立像など諸仏を安置。享保16年(1731年)領主毛利広政公が再興されました。

※詳しくはチラシをご覧下さい。

周防阿弥陀寺ちらし1

周防阿弥陀寺ちらし2